米沢祐一さん東日本大震災津波到達点表示板設置
東日本大震災の津波で被災した岩手県陸前高田市の3階建てビルの屋上に所有者で包装資材販売「米沢商会」を経営する米沢祐一さんが津波の到達点を示す表示板を設置しました。
高さは、約14メートル。
屋上の煙突にしがみつき、九死に一生を得た米沢祐一さんは「津波の記憶を風化させたくない」と。
屋上の煙突部分に縦1.3メートル、横1メートルのアルミ複合製の表示板2枚を取り付けました。
大学時代の友人に設置を勧められ資金面でも協力してもらいました。
震災時、近くの倉庫で地震に遭いました。
すぐ戻ると、父の節祐さん=当時(74)=、母の静枝さん=当時(70)=、弟の忍さん=当時(38)=がいました。
3人は、約70メートル離れた市民会館に避難し、米沢祐一さんは残りました。
避難しようと2階に上がろうとした時、津波が襲ってきました。
慌てて屋上の煙突まで駆け上がり、しがみついたところで、津波は建物全体をのみこみました。
黒い水が街を覆い、市民会館も何も見えなくなってしまいました。
津波は足元まで迫りました。
煙突にしがみついたまま一日を過ごし、自衛隊のヘリで救助されました。
陸前高田市では、市民会館や旧市役所など被災建物の取り壊しが進んでいます。
米沢祐一さんのビルも希望すれば国の予算で解体できましたが断りました。
米沢祐一さんは「壊したら二度と戻らない。実物がないと実感が湧かない。ここまで津波が襲ったという教訓も伝えられなくなる」と。
米沢商会のビルの位置は、市が計画するかさ上げ地域から外れているため、現段階では解体は求められていません。
先行きは分かりませんが米沢祐一さんは「できれば、ずっと残したい」と話しました。
高さは、約14メートル。
屋上の煙突にしがみつき、九死に一生を得た米沢祐一さんは「津波の記憶を風化させたくない」と。
屋上の煙突部分に縦1.3メートル、横1メートルのアルミ複合製の表示板2枚を取り付けました。
大学時代の友人に設置を勧められ資金面でも協力してもらいました。
震災時、近くの倉庫で地震に遭いました。
すぐ戻ると、父の節祐さん=当時(74)=、母の静枝さん=当時(70)=、弟の忍さん=当時(38)=がいました。
3人は、約70メートル離れた市民会館に避難し、米沢祐一さんは残りました。
避難しようと2階に上がろうとした時、津波が襲ってきました。
慌てて屋上の煙突まで駆け上がり、しがみついたところで、津波は建物全体をのみこみました。
黒い水が街を覆い、市民会館も何も見えなくなってしまいました。
津波は足元まで迫りました。
煙突にしがみついたまま一日を過ごし、自衛隊のヘリで救助されました。
陸前高田市では、市民会館や旧市役所など被災建物の取り壊しが進んでいます。
米沢祐一さんのビルも希望すれば国の予算で解体できましたが断りました。
米沢祐一さんは「壊したら二度と戻らない。実物がないと実感が湧かない。ここまで津波が襲ったという教訓も伝えられなくなる」と。
米沢商会のビルの位置は、市が計画するかさ上げ地域から外れているため、現段階では解体は求められていません。
先行きは分かりませんが米沢祐一さんは「できれば、ずっと残したい」と話しました。