松平春嶽が山内容堂に宛てた密書発見
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幕府が1カ月間伏せた極秘情報を極めて早い時期に伝えており「幕末の賢侯」と称された2人の親密ぶりがうかがえます。
「大急密告」と始まる春嶽の密書は7月21日付。
後に15代将軍となる一橋(徳川)慶喜から京都で容体の悪化を聞き、同17日に大坂へ出発した経緯を報告。
同19日には「御苦悶之御様子」だったと家茂の病状を生々しく記し「断腸之心地如夢候」(断腸の思いであり、夢にうなされるような気持ちだ)と自らの心情を吐露しています。
春嶽は、家茂が20日早朝に亡くなったことを同日夕には知り、その後の対応を老中首座の備中松山藩主・板倉勝静(かつきよ)と相談するつもりだと説明。
懇意の容堂には知らせるが「大秘中之大秘」のため、2人と親交があった宇和島藩前藩主の伊達宗城(むねなり)を含め誰にも他言しないよう繰り返し求めています。
先に発見された岩倉具視(ともみ)宛ての書簡などとともに今月19日から旧野崎家住宅で公開されます。
〒711-0913
岡山県倉敷市児島味野1-11-19
野﨑家塩業歴史館
TEL 086-472-2001
FAX 086-472-2636
松平春嶽(まつだいら しゅんがく)
1828〜1890(文政11年〜明治23年)
日本の世界進出を夢見て、慶喜とともに幕政を改革。
田安家出身。
福井藩主。
名は慶永、春嶽は号。
有能な人材を門閥にとらわれず登用、開明的な政策をとり名君と称された。
将軍継嗣問題では一橋慶喜を推すが、井伊直弼により隠居・謹慎を命じられ、江戸霊岸島に幽閉される。
1862年勅旨により政事総裁職として慶喜とともに復帰。
慶喜の文久幕政改革をたすけ、世界との通商による日本の富国強兵を主張した。
王政復古後は、幕府と朝廷の間に立って慶喜の政権参加に尽力。
明治新政府の議定、大蔵卿など要職を担った。
山内容堂(やまうちようどう)
1827‐72(文政10‐明治5)
幕末の開明的な土佐藩主。
大政奉還を建白したことで有名。
豊信(とよしげ)と名のる。
容堂は号。
鯨海酔侯、九十九洋外史、酔擁美人楼などの別号をもつ。
1848年(嘉永1)分家から入って襲封。
黒船来航を契機に藩政改革に乗り出し、あわせて松平慶永や島津斉彬らと一橋慶喜を将軍継嗣に擁立する動きに参画。
しかしことは成らず、安政の大獄の強圧のなかで隠退したが、謹慎を命ぜられた。
62年(文久2)勅使東下のなかで活動を再開し、将軍後見職一橋慶喜らに朝幕間の調和を説き、公武合体をはかった。